Nov.22 2023
世界の人口増加、先進国における高齢化などが進み、医農薬の技術進化と生産・供給体制の強化に対する期待が高まる中、AGCはライフサイエンス事業をCEO直轄カンパニーとして独立させた。同社の合成医農薬・バイオ医薬品CDMO(Contract Development and Manufacturing Organization=開発製造受託)事業は、規模と領域が着実に拡大。世界の同業界の中で大きな存在感を放つ。今後のCDMO事業の戦略について、プレジデントに就任した小室則之氏に聞いた。
小室 則之
AGC 常務執行役員 ライフサイエンスカンパニー プレジデント
国際連合が掲げる「持続可能な開発目標(SDGs)」の17の目標では、「すべての人に健康と福祉を」「飢餓をゼロに」といった、人の命や健康に関わるものが多く挙げられている。医農薬の開発・供給の推進に対する社会からの期待は大きい。
こうした状況下、AGCは2023年1月1日付の組織改正で、これまで化学品カンパニー内で合成医農薬・バイオ医薬品の開発製造を受託するCDMO(Contract Development and Manufacturing Organization=開発製造受託)事業を展開していたライフサイエンス事業本部を独立させ、CEO直轄の組織となるライフサイエンスカンパニーを新たに設立した。積極的なM&Aや能力増強投資に向けた意思決定を円滑かつ適切に進め、医農薬の迅速で安定した供給に対応するための組織改編だ。
世界人口は増え続け、高齢化も進み、医薬品の需要は高まる一方だ。医薬品技術も進化を続け、新薬の開発には数千億円もの巨額な研究開発投資が必要になる。そのため経営リソースの集中が求められた製薬会社各社において、創薬と販売に事業をフォーカスし、製造工程の開発や治験薬の生産、商業生産を外部委託する例が増え続けている。だが高度な新薬の製造難易度は高く、効果的な新薬の開発さえ完了すれば、誰でもたやすく商業生産できるというものではない。
農薬も飢餓に苦しむ人々の命をつなぐため、安定した食料生産に欠かせない。だが同時に、より環境と人体に安全な農薬が求められている。環境や人体には安全だが、作物の生育を妨げる雑草や昆虫には確実に作用するという二律背反した特徴を持つ農薬を作るためには、相応の高度な合成技術が必要だ。
AGC 常務執行役員 ライフサイエンスカンパニー プレジデント 小室 則之氏
こうしたニーズに応え、医農薬の開発製造面における包括的なサービスを提供するのがCDMOだ。
プレジデントに就任した小室則之氏は、「AGCは、長年にわたって生産難易度の高い高品質な素材を市場の要求に合わせて開発・製造してきた実績を持つ企業です。医農薬の技術的進歩と安定供給を後押しするCDMO事業においても、ものづくりに真摯に向き合ってきた素材メーカーとしての知見とスキルで、市場の拡大と社会の期待に応えていきたいと思います」と力強く語る。
AGCでは、コア事業と戦略事業を両輪として、最適な事業ポートフォリオへの転換を図り、持続性をもって経済的・社会的価値を創出する「両利きの経営」を全社戦略として掲げる。ライフサイエンス事業は、エレクトロニクスやモビリティと並ぶ戦略事業のうちの一つ。高成長分野において自社の強みを生かし、将来の柱となる高収益事業になることがミッションである。
一般には素材メーカーとしてのイメージが強いAGCが、ライフサイエンスを戦略事業とし、合成医農薬やバイオ医薬品の開発製造に携わっていることを意外に感じる人も多いかもしれない。しかし、実は同社のライフサイエンス事業の歴史は長い。1973年にはフッ素化学の技術を基にライフサイエンスチームを設置。1985年には合成医農薬のCDMO事業を開始、2000年にはバイオ医薬品CDMO事業へ本格参入した。
2010年代には積極的なM&Aにより欧米に複数の拠点を獲得してグローバルでの成長を加速させ、2020年には最先端の医療技術である遺伝子・細胞治療薬分野にも参入。同社のものづくりの知見とスキルは、化学合成の医農薬からバイオ医薬品、遺伝子細胞治療薬の開発・製造まで幅広く展開され、今もその成長を続けている。
同社は、技術革新の進む医薬品の開発・製造において難易度の高い先進的な技術へも積極的に挑戦を続けることで、世界における医農薬CDMOの中でユニークなポジションを築いてきた。「創業者の『易きになじまず難きにつく』という言葉が社内に浸透しており、技術的に製造が難しいものであるほど、私たちの出番だと考えています」と小室氏は語る。
AGCのライフサイエンス事業の強みは、大きく3点に集約できる。1つ目は、グローバル市場において高水準のサービスを提供できる体制である。日米欧3極・10拠点において、厳格な現行医薬品適正製造基準(cGMP)のガイドラインに沿って統合された高い品質のサービス提供体制を構築。どの地域からも、同一の高水準な開発・製造サービスを、幅広い分野で提供できる。
世界3カ所に設置したR&Dセンターでは、新技術の開発や既存技術の改善を推し進め、得られた知見をグローバル各拠点に展開することで、グループ全体のCDMOサービスの継続的な進化と改善に取り組む。
2つ目は需要の変化に迅速・適切に対応可能な、フレキシブルな生産体制である。医薬品の開発段階などに応じて製薬会社のニーズは変化する。新薬の開発初期段階では、少量の迅速な生産が求められ、商用化した後には高品質かつ大量生産できる能力が求められる。AGCのCDMOサービスは、開発初期から商用化後までの幅広いニーズに対応できる。
バイオ医薬品の領域では、現在の主流である動物細胞を小規模から中規模までフレキシブルに生産できる「シングルユースバッグ(SUB)」を利用した生産手法を、他社に先駆けて導入した。通常、動物細胞は巨大なステンレス槽の中で培養され、生産前後に厳重な洗浄が必要になるが、SUBは使い捨て容器で培養する。そのため生産後には新しいものに取り換えてすぐに次の培養に取りかかることが可能となり、前に製造した医薬品が設備に付着し次の医薬品の製造の際に混入するといった交叉(こうさ)汚染(クロスコンタミネーション)のリスクも軽減される。
現在、保有しているSUBの生産能力は世界2位(AGC推計)。ただし大規模な商用医薬品の効率的な生産も想定し、別途ステンレス(SUS)製大型培養槽も併用している。一方、合成医薬品の領域においても、開発初期の少量製造に適した設備から商用向けの大型反応器まで保有し、フレキシブルな生産を実現している。
図1 開発ステージや製造規模に合わせて、フレキシブルな生産が可能
3つ目は、商用医薬品の製造実績である。開発後期・商用医薬品の製造には、高度な品質・製造管理体制と医薬品規制当局による厳格な査察の通過が求められる。製薬会社は、多額の投資をして開発した医薬品を確実かつ早期に市場投入するため、信頼・実績のあるCDMOを委託先に選ぶ傾向がある。バイオ医薬品の原薬委託案件のうち、世界の上位10社(受託案件数ベース)が約半数を受託しており、AGCはこの上位10社の一角を占める。
近年脚光を浴びている新技術である遺伝子・細胞治療においても、医薬品規制当局から3件の商用案件の承認を取得している。これは業界トップクラスである。
CEO直轄のカンパニーとして独立したことで、AGCのライフサイエンス事業は、これまで以上の成長と多角化が加速していきそうだ。
「M&Aや投資などに向けた意思決定がスピードアップし、医薬品・農薬業界での価値観や事業環境に即した体制作りが可能になります。市場の成長は確実で、しかもこれまでの実績から業界におけるAGCの存在感はより大きく、かつ相応の供給責任を担う状態になりました。CDMO事業を量的に成長させるとともに、質的にもより価値ある事業へと高めていきます」と小室氏はこれからの指針を語る。
2022年12月時点でのライフサイエンス事業の売り上げは約1400億円。これを早期に2000億円にまで成長させ、2030年には売上高4000億円の目標を掲げる。2020年から2028年にかけての医薬品市場の年平均成長率は7.1%、AGCが注力する原薬CDMO市場では年8.0%の成長率が見込まれている。「積極的なM&Aと各生産拠点での増強投資を行い、市場の広がりに見合った供給体制の構築を進めたいと考えています。合成医農薬向けもバイオ医薬品向けも、世界中のどこかで常に増強・増産に向けて取り組んでいる状態にしていきます」と小室氏は言う(図2)。
また、カンパニーとして独立したことで質的に最も変わる点は、品質保証に向けた体制整備だという。化学品カンパニー内の一事業本部としてCDMO事業を展開すると、どうしても化学品の品質保証体制が前提となる。医薬品の際立って厳しい品質保証要求に、あくまで例外的運用で応える必要があった。しかし独立カンパニーとなったことで医薬品開発・製造にとってより理想的な組織・体制を構築できる。日進月歩で技術革新してゆく医薬品市場の成熟度に応じた事業を展開していく予定だ。
図2 医薬品市場の成熟度に応じた事業戦略
AGCはさらに医薬品の新技術にも積極的に挑戦を続けている。2023年には、2つのCDMOサービスを新たに開始した。1つ目は、新型コロナウイルス向けワクチンにも活用されたmRNAである。今後インフルエンザなど各種感染症やがん向けワクチン、その他治療薬への応用が期待される分野だ。2つ目は、将来の実用化が期待されるエクソソームであり、東京慈恵会医科大学からエクソソーム治療薬の検証製造を受託するなど、着実に成果を出している。
現時点では合成医農薬・バイオ医薬品の主に原薬のCDMO事業に集中しているAGCだが、今後は、製剤のCDMO事業や医薬品の研究開発業務を受託するCRO(Contract Research Organization)事業への展開など、バリューチェーンの川上や川下へとサービスの幅を広げていくことを検討している。さらに将来の実用化に向けて研究が進む再生医療など、新分野・新技術の取り込みにも挑戦していく姿勢だ。
「ものづくりのプロフェッショナルであるAGCだからこそ原薬CDMOサービス以外にも幅広い分野において多くの貢献ができるフィールドがあると確信しています。AGCのライフサイエンス事業を、より魅力的で、より幅広い期待を寄せてもらえるような事業にし、他社とは違った価値を提供していきます」と小室氏は今後の抱負を語る。体制が刷新され、ビジョンをより実現しやすい組織になった、同社のライフサイエンスカンパニーから目が離せない。
※部署名・肩書は取材当時のものです
医薬品開発製造受託 (バイオ医薬品)
医薬品開発製造受託 (合成医薬品中間体・原薬)