Sep.15 2023
国内有数の素材メーカー、AGC。ガラス素材を基幹事業とする100年企業は今、モビリティ、エレクトロニクス、ライフサイエンス領域へ事業を拡大させている。変革の原動力となる従業員について、同社が企業理念に掲げ、重要視する価値観がダイバーシティ(多様性)だ。その更なる推進役として2022年、日系・外資双方の企業で人材育成に携わった井原有紀が着任した。井原がみたAGC社員とは。どのような環境や制度のもと育まれてきたのか。そして、企業にとってなぜダイバーシティは重要か━━。AGCの核となる“素材”、その人財に迫った。
井原 有紀(いはら ゆき)
AGC株式会社 人事部・人事戦略統括担当部長
関西学院大学卒業後、1991年ソニー株式会社入社、グローバルマーケティング部門人事、海外報酬などを経験後、アメリカ、ヨーロッパ赴任。2013年アマゾンジャパンにてHRBP、人材育成、採用、ダイバーシティなどを担当。2015年ノバルティスファーマにてオンコロジー人事部長として組織開発、人材育成に携わる。2022年3月より現職にて コーポレートガバナンス、経営人財育成、組織開発、ダイバーシティ推進等を担当。
人事部・人事戦略統括担当部長として、人財育成とコーポレートガバナンス、組織開発を担当する井原がAGCに招かれたのは2022年3月。これまで人事一筋にキャリアを重ねてきた。ソニーではグローバルマーケティング部門の人材育成を中心に、米国と欧州勤務も経験。アマゾンジャパンでは女性リーダーのグループを立ち上げ、ノバルティスファーマでは担当営業部門の女性所長をゼロから約25%まで引き上げるなどのダイバーシティの実現に取り組んできた。
AGC株式会社 人事部・人事戦略統括担当部長 井原 有紀氏
人事の道を歩むきっかけは、新卒で入社したソニーで配属希望を聞かれて返した自らの言葉にある。男性中心であった1990年代の電機業界。その時、井原は「自分ではどうにもできないことでハンディを負わない仕事がしたいです」と言った━━。それに対し「あなたが組織の風土を変えたらどうか」と言われ、人事に配属された。人材に携わる仕事への思いをこう話す。
「人事は世の中をより良くすることができる仕事だと思っています。働く社員が仕事にやりがいを感じて充実感が高まれば、会社も世の中も良くなるはず。人事の施策によって人は変わります。その瞬間を目にすることが仕事の喜びであり、この会社で目指していきたいことです」
AGCに仲間入りして1年余り。従業員に感じる、当初から変わらぬ印象があるという。「それは“等身大”です。物事を自慢したり、話を盛ったりしない。そして誰もが主体的に動く。その人柄の根底にあるのは自己肯定感の高さではないかと思いました。自分に自信があれば、大きく見せることも人の足を引っ張る必要もないからです」
生産工場を訪ねた際、エンジニアたちが侃々諤々議論していた。知的好奇心むき出しに、ものづくりに向き合う姿に「しびれました」と井原。AGCの前身である旭硝子を1907年に創設し、国産初の板ガラス製造を成し遂げた岩崎俊彌が唱えた創業の精神『易きになじまず難きにつく』の言葉がその光景に重なった。「挑戦するスピリットが根底に受け継がれていることを感じました」
AGCは2002年にグループビジョン『Look Beyond』を策定した。その中で、「従業員があらゆる行動の基礎として共有する重要な考え方」として4つの『私たちの価値観』を定めている。「革新と卓越」「環境」「誠実」、そして「多様性」だ。30を超える国と地域に展開するグローバル企業として、国籍、性別、経歴などにこだわらない多様な文化、異なった視点や意見を尊重することを、20年も前から企業理念とする。その時代に先駆けた精神はまた、人事制度にも見て取れる。
従業員の主体性にもとづいた柔軟な働き方ができるコアタイムなしのフレックスタイム制度を1989年に導入。労働基準法の改正により同制度が施行された翌年のことだ。男女を問わず取得できる育児休暇制度は2003年に採り入れ、2012年には育児と介護を理由とする在宅勤務制度をスタート、5年後には理由を問わず活用可能とした。2017年から始めた配偶者転勤時休職制度は最長3年間、配偶者の転勤先への同伴を認めるもので、井原と同じ部署の男性従業員も現在取得中。別の企業に勤める妻の米国留学に同行し、1年半の予定で休職中だ。
従業員のチャレンジ精神を支援する人事制度も整える。その一つチャレンジキャリア制度は、各部門が社内から人財を募集する人財公募と、従業員が自分の専門性を活かすために取り組みたい職務やキャリア形成のために経験したい職務を自由に登録する希望職務エントリーから構成される。希望職務エントリーは、AGCの部門長やカンパニートップに自分を売り込む制度だ。
「例えば、自動車用のディスプレイやセンサーなどの製造に携わるオートモーティブカンパニーで働きたいという従業員がいたら、私はこういう仕事ができますといった自己推薦文を書いて部門長やカンパニープレジデントに直接メールし、そのチャンスを待つ制度です」。社内便を使って自己推薦文を送っていた1999年に始まる制度だ。
さらに直近の2023年から「ジョブチャレンジ」を始めた。勤務時間の最大2割を別の部署で仕事することを認めた社内副業制度で、受け入れ側の部署が求める人財を募り、それに手を挙げた従業員を人事が仲介する。ガラスの技術開発や新商品のマーケティング活動、グローバルイベントへの参画などの案件が続々と挙がっている。
異なる視点や考えをもつ人財を積極的に受け入れる多様性に価値を置いたAGCの人事施策。それに加えて井原は、「従業員有志の自律的な活動を会社が支援していることもAGCの特長です」と話す。象徴的なものが、2011年から始まる「クロスディビジョナル・ネットワーク・アクティビティ(部門横断的ネットワーク活動)」、通称CNAだ。
ガラスの成形技術、データサイエンス、営業マーケティングなどのスキルごとに従業員が所属部署を超えたサークルを編成。高めたいと思うスキルに各人が登録し、スキルリーダーが中心となって開く外部講師を招いた勉強会や視察などを通じてスキルアップを図る自主活動である。現在、41のスキルカテゴリーに計約6千人の従業員が登録する。活動資金は人事予算で手当てしている。
当初、CNAは通常業務では得られない経験やネットワーキングを目指して活動を始めたが、いつの間にか義務的で負担感のあるものになり、「やらされている感じがする」という声をあげる従業員が出てきた。2015年、前CEOで現会長の島村琢哉が活動の定義を変更、「CNAは従業員が自発的に活動するプロフェッショナルクラブであり、サードプレイス」と位置付けた。
「自宅はファーストプレイス、職場がセカンドプレイス。CNAはカフェのように居心地が良い場所で、従業員が自由に集い創造的な交流が生まれる第三の場という意味です」と井原。会社の事業に反映させる成果をあえて求めない方針を貫く。幅広い世代の従業員が部門を超えて交流するこのサードプレイスは、次世代を担う若手従業員が知見を深め、人脈を広げる場にもなっている。
AGCの課題として井原が取り組むものの一つが、女性管理職比率の向上だ。多くの技術系従業員と生産現場をもつ素材メーカーは、長く男性中心の職場だった。ダイバーシティ推進のもと、2021年4月時点で3.8%だった課長級以上の女性管理職比率を、2030年までに倍増の8%程度とすることを目標に掲げる。同じく女性執行役員比率は20%(2021年末時点で3%)、女性役員比率は30%(同18%)に引き上げる計画だ。
併せて女性部長の人財育成策も始めた。上司である役員から見た強みや改善点などを本人に伝えるフィードバック面談を実施。面談内容に納得したかどうかを井原は女性部長から聞き取り、「納得していない場合は再度セッションを設けてもらいました」。管理職として今ある姿を認識し、成長につなげる狙いがある。セッションを終えた後、女性部長は役員の中からメンターを選ぶ。直属の上司とは異なる視点から助言を得られる仕組みも取り入れた。
だが、井原は言う。「女性管理職比率を高めることだけがダイバーシティではありません。一人ひとりの個性や強みを活かすことがダイバーシティです」
AGC株式会社の従業員数は約7,400人、海外を含むグループ全体では約57,000人に上る。その一人ひとりの価値を認め、活かすことで組織の力を高める(=多様性・Diversity)、置かれた環境に応じて個々に合った必要な支援を提供する(=公平性・Equity)、相手を認め、違いを受け入れて、良いところは取り入れ、必要なときはとことん議論する(=包括性・Inclusion)。そこから次世代を築くイノベーションは生まれると、CEOの平井良典は社内に繰り返し説く。3つの頭文字を合わせた「DE&I」を、グループ成長の鍵を握る重要な要素として従業員に呼び掛けている。こうした意識を醸成するダイバーシティ研修を2022年から始めた。
さらに2023年からは、アンコンシャス・バイアス研修にも取り組む。「子どものいる女性は出張が難しい」などの思い込みや自身の偏ったものの見方に気付き、柔軟な視点と考え方を養う内容で、約7,400人全員を対象に実施。「管理職だけでなく、広く従業員が身に着けてこそ職場の風土は変わる」という考えからだ。
AGCグループは、1956年にインドに初の海外進出をしたことを皮切りに、タイ・インドネシアなどアジアに展開した。1981年に欧州のガラス大手企業であるグラバーベルを買収、2000年代に100%子会社としたことをきっかけにグローバル一体経営をスタートさせた。その後もタイの化学品メーカーであるビニタイ、アメリカ大手バイオ医薬品原薬の開発製造受託企業のCMC Biologics のM&Aを実施しインテグレーションしてきた。現在では30を超える国と地域でビジネスを展開し、グループ従業員の約8割は外国人従業員となっている。
これらのグローバル組織を支援するため、ビジネス別人事に加え、アジア・パシフィック、中国、米国、欧州といったリージョン(地域)ごとの人事組織がある。各組織では、国籍、宗教、ジェンダーへの価値観など地域の特性を尊重し、意見を交わしながら、それぞれリージョンに根差した施策に取り組む。本社からの押し付けではなく、各地域のニーズに合わせ、主体的な活動を支援するという考え方は、DE&I推進にも貫かれている。
『易きになじまず難きにつく』の創業精神を礎に、20余年にわたって社内制度を整え、従業員を育んできた多様性という価値観。「会社のすべては人に起因する」という井原は、企業文化の更なる進化に挑戦している。
※部署名・肩書は取材当時のものです