素材のイノベーションを日本から 産学連携で未来のビジョンを 素材のイノベーションを日本から 産学連携で未来のビジョンを

Dec.15 2021

素材のイノベーションを日本から 産学連携で未来のビジョンを

日本経済は「失われた30年」と言われ、デジタル化で成長を続ける米国に後れを取っている。中国や新興国が大きな成長を遂げる中、日本の産業競争力を高めるためには、イノベーションを生み出すためのエコシステムとして産学連携の変革が不可欠である。こうした課題を痛感して動き出したのが、東京大学とAGCである。東京大学は企業が安心して連携できる法的基盤を整え、国内外の企業と大型の産学連携を進めている。「東京大学国際オープンイノベーション機構」も設立し、AGCと同機構初となる大型共同研究を2019年に開始した。さらに2020年には、200億円の「東京大学FSI債」を発行し、独自の資金を得て新たな産学連携にもつながる大学としての基盤を整備している。今、求められている産業界とアカデミアの新たな連携について、東京大学・前総長の五神真氏とAGC株式会社 社長兼CEOの平井良典氏が対談した。

Profile

五神 真(ごのかみ まこと)

五神 真(ごのかみ まこと)

東京大学大学院 理学系研究科 物理学専攻 教授

1985年理学博士(東京大学)。1998年東京大学大学院工学系研究科教授。大学院理学系研究科教授、副学長、大学院理学系研究科長を経て、2015年4月から第30代東京大学総長。2021年4月から大学院理学系研究科教授。専門は光量子物理学。東京都出身

平井 良典(ひらい よしのり)

平井 良典(ひらい よしのり)

AGC株式会社 代表取締役 兼 社長執行役員CEO

1987年工学博士(東京大学)。2008年に液晶パネル製造の子会社オプトレックス(当時)の副社長、2011年にAGCの事業開拓室長。2016年CTOを経て2021年1月から現職。京都大学の客員教授として年に数回教壇に立つ。学生時代には物理学者を志していた。福井県出身

新たな成長モデルを創出できる 産学連携のあるべき姿を追求

――日本におけるアカデミアと産業界の課題について、率直な意見をお聞かせください。

五神氏 米国では21世紀に入ってデジタルテクノロジーが急成長し、経済的にも成功しました。日本がそれに学ぼうとしたとき、アカデミアの課題がどうしても浮上します。私が総長になった2015年当時、東京大学の産学連携は年間1400件ほどありましたが、そのほとんどが年間予算200万円以下の小さなプロジェクトでした。日本の生産エコシステムの将来を考えれば、従来の延長線上にはない新しい挑戦が必要になっていることは明らかです。そのために、アカデミアと産業界が本気で協同して新しい成功モデルを生み出すべきときにきています。


より大きなビジョンを産業界と作り上げる必要性を強く感じた私は、総長の任期中に複数の施策を実行し、かつてない大規模な産学連携、「産学協創」をいくつもスタートさせました。

五神 真氏

東京大学大学院 理学系研究科 物理学専攻 教授 五神 真氏

平井 良典氏

AGC株式会社 代表取締役 兼 社長執行役員CEO 平井 良典氏

平井氏 世界の名目GDPは1990年から2020年の30年間で3.6倍に伸びる中、日本の名目GDPは1.6倍と伸び悩んでいます。日本の産業競争力を高めるには、米国のような産学連携とベンチャー育成による資金と人材の流動性を高めなければならないと考えています。


明治時代に東京大学が創設されたのは日本を富ませるためです。学問の追求と産業育成は直結していました。しかし、その連携はいつのまにか切れてしまったようです。基礎学問は、産業に応用されて初めて、資金も人材も回り始めます。

例えば、量子力学が始まった当初はアインシュタインも懐疑的だったように、広く認められた学問ではなく、社会実装など想像すらできなかったと思います。それが現在ではエレクトロニクス産業の基礎となり、巨大な経済価値を生み出すまでになりました。今後はグリーンとデジタルが産業の中心になると言われていますが、地球環境問題を取り巻く状況をネガティブに捉えるのではなく、次の新しい成長を生み出す機会にもなり得るはずです。そのために大学の知を結集し、民間企業が社会実装するという、理想的な連携を実現していきたいと考えています。

「量的成長」から「質的成長」に イノベーションを加速する体制へ

――イノベーションにもスピードが求められています。アカデミアと産業界は自身をどう変革すべきでしょうか。


五神氏 新しい技術を社会実装するには、サイエンスやテクノロジーだけでなく、社会ルールや経済メカニズムなども新しくしていく必要があります。総合大学のような多種多様な知識を持つ組織が産業界と自由に連携できるようになれば、イノベーションを加速していけるでしょう。


例えば、デジタルトランスフォーメーション(DX)が進む中、電子デバイスの数が爆発的に増えた結果、1人当たりの消費エネルギーは上がっています。DXというとアプリケーションやサービスに目が行きがちですが、持続可能な成長をもたらすにはエコであることも不可欠です。それを実現するには、革新的な技術に基づく新素材が非常に重要です。


平井氏 「成長」という言葉の意味も大きく変化しています。20世紀の成長とは、主に量的な成長でした。しかし21世紀以降、明らかに質的な成長が求められています。


これを受け、AGCも10年ほど前からシリコンバレーの手法を取り入れ、社内ベンチャーによって新規事業やイノベーションを生み出せる仕組みを構築してきました。素材業界では研究から事業化まで20年以上かかることが多いです。多種多様な英知を持つ大学と一緒に考えることによって、それが10年、あるいは5年に短縮できるかもしれません。 


さらに、それを自社で加速していくには、新たなデジタルテクノロジーを活用しつつ、社内ベンチャー育成の仕組みと、大学との連携とを両輪として回し続けていくことが重要です。

産学連携における大学の価値 経済的な自立を導き出す

――東京大学はこの5~6年で産学連携へ向けて大きく踏み出したように思います。象徴的な施策をいくつも展開されています。

五神氏 総長になってすぐ、任期中の行動指針として「東京大学ビジョン2020」を作りました。文部科学省からの資金のみに頼るのではなく、産業界と連携することで大学が持つ価値を自ら理解し、それを高める中で、経済的に自立していくためです。


総長になってまず実感したのは、大学自身が大きく変わらなければならないということです。一番の問題は、資金です。大学の場合、総長といえども自由裁量で使えるお金はほとんどありません。そこで、私は大学が持つ土地や資産を徹底的に洗い出しました。その有効利用を進めることで、まずは年間10億円規模の資金を捻出したのです。


五神 真氏

しかし、東京大学は年間予算2500億円規模の事業体です。10億円は貴重なお金ではありますが、単にそれを使ってしまうのでは焼け石に水です。そこで、この資金をテコにまとまったお金を作り、将来の成長に向けて集中的に先行投資したいと考案したのが、「東京大学FSI(Future Society Initiative)債」の発行です。初めての起債にもかかわらず40年債で200億円という未曽有の規模でしたが、一瞬で売り切れ、いくつもの賞をいただきました。


また、東京大学ビジョン2020の策定後、多くの経済界の方々と議論した結果、「日本では未来への投資対象が明確になっていない」という大きな問題に気づきました。ならば、それを一緒に作りましょうと。未来に対してどういうビジョンを持ち、何に投資していくべきか。ゼロベースで議論できるような産学連携をやろうということで、当時経団連会長だった中西宏明氏と議論し、産業界との大きな連携を実現していきました。


平井 良典氏

平井氏 明確なビジョンがなければ成長はできません。バブル崩壊後の日本では、確かにそうしたビジョンが出てこなかったように思います。産業界でもこうしたビジョンは重要です。我々も10年後の自社の「ありたい姿」をまとめ、社内外に公表しています。長期的なマクロトレンドからバックキャストして、今やるべきことを明確化することで、本当になりたい姿に近づいていくことができるはずです。


五神氏 産学連携の考え方を根本から整理する中で、大学側にもう1つ大きな問題があったことに気づきました。年間予算2500億円規模の事業体なのに、法務のプロフェッショナルがいなかったことです。私はすぐに現役の弁護士に知的財産部長としてフルタイムで来てもらい、個別の実態に応じた産学連携の契約書を1本1本しっかりと作れる体制を整えました。契約が整備できなければ100億円規模の大規模連携は無理ですし、お互いが困らない知財の扱いをしなければ企業側も不安になるばかりです。

この体制を活かし、IBMの米国本社と契約し、台湾の半導体ファウンドリーであるTSMC社とも包括契約を結びました。「東京大学国際オープンイノベーション機構」という形でも産学連携の基盤を整え、本機構で初となる大型共同研究プロジェクトをAGCと進めています。

社会全体への貢献が経営テーマに 日本の素材産業に世界が期待

――カーボンニュートラルや脱炭素化など社会的課題への関心が高まり、ROE的な視点だけでなく、ESG投資や企業の社会的価値がクローズアップされています。

平井 良典氏

平井氏 AGCの手がける素材という産業は、初期の開発から事業化までに時間を必要とします。だからこそ長期的な視野に立ち、株主だけでなく顧客、従業員、ひいては社会全体に対してどのように貢献していくかが、持続可能性を見据えた今日の経営における重要なテーマになっています。足元での結果を出しながら、10年先、20年先もぶれずにやっていくことを、経営の中心に掲げています。その中で、大学との連携が生きてくると考えています。短期志向ではなく、非常に長期的な視点で素材の新しい価値に取り組むことができるからです。結果的にはその取り組みが、株主への還元にもつながっていくでしょう。

五神氏 環境投資の面では、脱炭素が明確な課題になっていることは、変化のチャンスだと思います。2030年に温室効果ガス46%削減、2050年にカーボンニュートラルという目標の達成は既存の技術や知恵だけでは極めて困難です。海外の識者と話していると、この面で日本への期待が大きいのは、やはり素材です。日本の素材産業が衰退すると困る海外企業がたくさんあるからです。その強みをどのように生かしていくのか、長期的な視点を打ち出し、投資家も魅了する仕組みを考えていかなければなりません。


平井氏 環境問題への対応を成し遂げるには、必ず素材でのイノベーションが必要になると思っています。一方で、素材を生かすには、デジタル技術をうまく使う必要性が高まっています。業界の垣根を越えた連携ができれば、日本の中で中長期的な取り組みが有利に進められるでしょう。

 

五神氏 重要な指摘ですね。政府が進める2兆円規模の「グリーンイノベーション基金」がありますが、14の領域に分けた支援が基本になっています。例えば「製鉄プロセスにおける水素活用」といった形で事業が公募されています。グリーンイノベーションを実現しようとする場合、鉄の水素還元技術は重要です。しかし、それに加え、自動運転を進めて衝突しづらくすることでクルマのボディーを軽量化できるようにしたり、環境負荷の少ない電炉で作った鋼板を、高炉によるものと遜色なく活用できるようにする技術を開発したりすることも必要かもしれません。既存の縦割りに縛られていると、そうした領域をまたぐアイディアを生みだしづらい状況になってしまいます。

五神 真氏

平井氏 残念ながら産官学のいずれにおいても縦割り文化が残っています。日本のポテンシャルは高いので、目指すべきビジョンを共有できれば、横のつながりによってイノベーションを生み出せるはずです。日本はまだ素材産業において世界的な地位を維持していますので、ここをさらに強めるために大学と一緒に新しいものを生み出すことが、今後の成功事例になるのではないでしょうか。


五神氏 私も日本が強みを持っている素材は、非常に重要だと確信しています。一方で、伸び代が大きいものの十分使われていない、活用されていないところがあると思っています。つまり、素材をどう使うかというアプリケーションを創造的に開拓していくことも重要です。こうした点を活性化し、素材の底力を際立たせるという戦略が今後の日本に必要だと考えています。


――未来を担う学生や若い人たちに向けてメッセージをお願いします。


五神氏 今、大学に入る若い人たちを見ていると、私は「良い時代に生まれてきたな」とうらやましくすら感じます。なぜなら、本当にダイナミックに変化している時代であり、自分が面白いと思うことにどんどん取り組むなかで大きなチャンスに巡り会える可能性があるからです。変化にひるまず、楽しんで挑戦してほしいと思います。


平井氏 日本の学校教育を受けていると、同質性の方に偏りがちになります。しかし、新しいものを生み出す力は同質性ではなく、ダイバーシティ(多様性)にこそあるのです。若い方々には、ぜひ新しい世界、これまでの経験と異なる世界に勇気を持って大きく踏み込んでほしいと願っています。

日経ビジネス電子版 Special 掲載記事

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